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パソコン通信とインターネットの相互接続

WIDEの合宿中だったか、村井氏が WIDE とパソコン通信を相互接続したいと言い出した。村井氏の要望は、当時 NIFTY-Serve でさまざまなデータベースサービスを束ねて、サービスをしていたので、それをいちいち電話をかけてつなぐのではなく、インターネットでリモートコンピュータに接続するのと同じように、自分のワークステーションから使いたいというものであった。たぶんこの時は、村井氏はこのことしか眼中になく、PC-VANや、ASCIInetのことは気にかけてはいなかったと思う。しかし、WIDEの中核メンバーには、NECの佐野晋(当時)、ASCIInet草創期にそれを作った中村修(当時東大大型計算機センター)がいて、やるならそちらにも声をかけないわけにがいかないだろうという感じだった。

まあ、だいたいこういうわがままからスタートするので、我々は慣れっこだったが、WIDEの共同研究企業の富士通、NEC、アスキー経由で、NIFTY-Serve, PC-VAN, ASCII-net の担当者が集められ検討することになった。

私は当時NIFTY-Serveの SYSOPをしていることは知られていたので、WIDE側は私が担当することになった。

村井氏の要望については、単に慶応大学からそれぞれのサービスが提供している網に専用回線を接続すれば実現できる話で、先方もビジネスとしてやっているので、そうして欲しいというだけだったと思う。その当時の感覚とすれば、事業者から見れば、各大学別々に接続して欲しいというのが本音だったのではないだろうか?

それに、まだこの当時、TCP/IPベースのインターネットに対して、民間のネットワークは、X.25 ベースだし、標準の志向は、CCITTに向いているので、とりわけ NEC は、OSI標準での接続を強く主張していた。

実は、この当時すでにアメリカでは、compuserve とインターネットとの間はメールの交換ができていた。また、MERITのゲートウエイ経由で、CIS (Compuserve Information Service) に直接ログインすることができた。その点で、技術的にはなにも新しいことではなかった。

アメリカは、電子メールの交換に関してはかなりおおらかなのではなかっただろうかと思う。そもそもすでに、さまざまなネットワークが相互接続しており、UUCPベースの個人を含むネットワークも接続されており、メールを送ることはできた。ただ、さまざまなゲートウエイ指定の方式があって、かなり技を駆使していたことも事実である。

MERIT経由のゲートウエイの運用ポリシーははっきりとはわからないのだが、この当時の日米のインターネットはやはり大学・研究機関中心であり、まだ民間のネットワークが大規模には接続してはいなかったので、暗黙に、利用できるユーザは大学のユーザだけということだったのであろうと思われる。

日本も、時期的には商用インターネット開始前夜という時期であり、おそらく時間の問題ではあったと思うのだが、センシティブな時期でもあった。この背景には、当時の郵政省が、こうしたパソコン通信事業者間のメール交換を、MHSベースで実現しようとしていたという問題もある。つまり、既存事業者はその世界のネットワークサービスにそれなりに投資をしていたわけだし、準備もしていたと思われる。そこへ、事業者でもない WIDEインターネットが割り込んでくるのは不都合なことと思う人たちもいただろう。

パソコン通信サービスは、X.25の網を利用しており、回線のインターフェースが、9.6Kbps であり、 9.6Kbps の専用線を各社が藤沢まで引くということになったという事実もある。すでに、WIDEは、64Kbps以上のデジタル回線で接続しており、これでは、telnet でインターネット側から接続して、みんなで利用するいうメリットには疑問がある。そこで、私は、電子メールの相互交換の実現を主張した。

JUNETの実験にしても、最初は電子メールから始まったのだし、電子メールの相互接続であれば、インターネット全体の互いのユーザのメリットになる大義名分になるからだ。

私は、NIFTY-Serveのシステムを担当している人や、富士通研究所の人たちとも親しく、富士通の人たちが NIFTY-Serve を社内的にも活用していることも知っていた。富士通研究所の人がNIFTY-Serveのメールを自分たちのシステムに取り込んでいることとか、私自身も、NIFTY用のオートパイロットプログラムを、自分のワークステーションで動かしていてメールを統合していたので、その延長でやってしまえばよいと考えた。世界には、そうしたいわば野良ゲートウエイが多数あるのも事実だった。

ASCIInet は内部的には、UNIXを利用していたので、UNIXメールへの乗り換えはさほど難しくなかった(実際には、ASCIInetの初期は通ってしまっていて、それを止めたともいわれている)。PC-VAN (NEC)は、郵政省の MHSの問題を強く意識していたのかは定かではないが、X.400を使うということにこだわった。しかし、現実的には富士通が全然そうではない、いわば野良方式で接続してしまったので、NEC側でX.400-smtp ゲートウエイを運用し接続したというのが実態ではなかったかと思う。

こうして、まず電子メールゲートウエイが実現した。niftyserve.or.jp, pcvan.or.jp, asciinet.or.jp の3つが、WIDEに加わった。ただ、問題は学術系ネットワーク側にあった。当時、実はまだ、すべての大学に、インターネット型の電子メールサービス(JUNETを含めて)が存在しているわけではなく、多くの大学や研究機関の人もパソコン通信のサービスを利用していた。特に NIFTY-Serveでは、研究団体がフォーラムの仕組みを使ってコミュニケーションを行っていたりした。そのため潜在的なニーズはあった。

しかし、MHSでの相互接続など事業者間の取り組みに対する気遣いだったり、やはり商用、というかセールスのトラフィックが流れるのではないかという問題に対して、慎重な配慮を行うことが必要だった。

そうした、制限を行う仕組みを実装するほうがコストは高くなるのだが、sendmail に改造を施し、中継できるドメインに制限を加え、最初は WIDE に限り、次に大学全部、その次が国内全体ということになった。この仕組みを作るのは、オレンジこと森下泰弘君(現:JPRS)が大活躍した。概ね好評に推移したので、全体に広げるのにそれほど時間がかかったわけではなかった。

もう一つ問題になったことで、このプロジェクトがその普及に大きな役割を果たしたのが、メールの Subject に日本語を使うことである。まだ、当時インターネットの電子メールの Subject は、日本語を使用しておらず、英語かローマ字、つまりASCII文字しか使っていなかった。これに対して、NIFTY-Serveのメールの題名(Subject)は当然日本語だった。これを、インターネット用の Subject を別にいれさせるのは現実的ではなかった。

そこで、提案されて間もない、RFC2047, MIME (Multipurpose Internet Mail Extensions)

Part Three:Message Header Extensions for Non-ASCII Text を使うことにした。

もちろん、多くのインターネット側のメールリーダで、これに対応する必要があったわけだが、そこは、WIDE/JUNETの強みで程なく多くのインターネットで利用しているソフトウエアで対応できるようになったと記憶している。

それぞれのサービスから、海外にメールを出すことに関しては、WIDEのゲートウエイ経由ではなく、各サービスの中で別のサービスが有料で運用された。NIFTY-Serveでは、Compuserve経由で海外にメールを出すことができた。

村井氏の当初の要望の直接のログインについては、NIFTY-Serveについては慶応大学にゲートウエイ装置を置いて、WIDE内では、telnet プロトコルでログインすることができるようにした。他社については、結局しないうちに、商用インターネットの時代に入ってしまったと思う。

NIFTY-Serveに関しては、インターネットとの間のトラフィックは、まさにうなぎのぼりに増加していっていた。そのため、IIJの事実上の第一号ユーザは、NIFTY-Serveであった。当時としては、最速の192Kbps の専用線で接続した。こうして慶応大学経由の細い専用線はなくなって、健全な姿になり、誰でもインターネット経由で、NIFTY-Serveを利用できるようになった。IIJ経由になって、当然 NIFTY-Serve でやり取りできる電子メールの範囲の制約はなくなった。残念ながら、PC-VANや ASCIInet がその後どうしたかはあまりフォローしていない。アスキーもNECも IIJ と接続したので、おそらくその下で運用されたのだと思う。

MHSでの相互接続も程なく実現された。しかし、インターネット経由でのトラフィック量から考えると、人々の印象にも残っていないし、実際にわずかしか使われなかっただろうと思われる。

インターネット経由の telnet 接続は、NIFTY-Serve 側のゲートウエイ装置で、9600bps で接続され、正式サービス化した。まだ、当時はSYSOPを続けていたので、この回線を利用してNIFTY-Serveを使っていた。自宅は、ヤマハのISDNルータでIP接続していたので、それを経由してSYSOPの仕事を行っていた。

自宅は、PCベースの UNIX (当時はまだ、BSDI社の BSD/386だったと思う)を使っていて、そこで perl で書かれた Nifty4U というプログラムを使っていた。これで自分の側では、完全にインターネットのメールや、ネットニュースと融合させていたし、telnet 経由で、NIFTY-Serve のライブラリのアップロード・ダウンロードもできるようにしていた。

私は、IIJを3年で辞めて独立した。次のメディアエクスチェンジの設立までの間は、いわばSYSOP業が中心の一つだったともいえるのだが、程なく後輩にSYSOPを譲って引退した。

インターネット経由での接続ができるようになると、1分10円とか、25円とかの料金が難しくなってくる。実は、IIJのダイアルアップIP接続の料金は、当初はこのNIFTY-Serveの料金と同額であった。私が真似をしたわけだ。当たり前だが、この二重の課金を払ってNIFTY-Serveを利用する人はいないわけだし、その後富士通がInfoWebというインターネットサービスを開始したのちも、同じ問題は起こる。NIFTY-Serveのようなサービスが存続できなかったのは、このビジネスモデルの転換ができなかったことも一因だと思う。