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パーソナルヒストリーメモ(その9)

  • IIJに行く前、東大のころから交流のあった、公文先生、村上先生から声がかかり、国際大学グローバルコミュニケーションセンター(GLOCOM)に研究員として参加する。最初のミッションは、インターネットに接続すること。
  • 大学なので WIDE に接続するわけだが、幸いにして、全員が Mac 使いで、AppleTalk のネットワークは所内に作られていた。都内だし、最初から光でやっておいたほうが面倒がないということで、ちょっと無理して、192Kbps で接続する。AppleTalk-IP Gateway (製品名は忘れたなあ)を使って接続する。その後、順次 Ethernet へ移行。
  • この時期、ネットワーク機能としては、Apple のほうが全然進んでいた。Windows は全くだめ。インターフェースもプロトコルスタックもない。Chameleon を入れて使うのが多かった。Ethernet インターフェースも高かった。巷で言われている通り、Windows 95 で、TCP/IP が入った。ただ、当初はインターネット関連機能は、Plus! でオプションだった。
  • IIJ で講演活動をし、NIFTY-Serve のインターネットフォーラムの SYSOP をして、UNIX Magazine の連載(インターネットの利用と仕組み)を始める。ここから50回の連載。確かに、インターネットの伝道師か。
  • 深瀬さんに、NIFTY の SYSOP を辞めて、会社に専念するべきではないか的なことを言われたが、IIJ は給料の遅配が起きて、それどころではなく、存続が怪しいと思った。このまま、特二のライセンスが取れなければ、本当にそうなるしなあ、と思った。TTnet の人と、UTnet時代から懇意にしていたので、三井物産に呼び出されてお説教を食らう。たぶん、これがその後 IIJ を辞める伏線になる。
  • 三井物産と、三菱商事は、電力系NCCに出資していた。西のいくつかの会社では、住友商事も出資していた。IIJには、伊藤忠と住友商事が出資したが、この辺り、カラーの違いを感じた。これは後の MEX の設立後も悩まされる。
  • IIJがインターネット事業を開始すると、役所の委員会の委員として呼ばれるようになった。通産省での電子商取引関係の委員会で、室町弁護士と一緒になる。アメリカでそのあたりの勉強をして帰ってきたところで、委員会では、2人で掛け合い漫才よろしく発言をしまくった。
  • 任意団体 JPNIC で、規約の策定にあたり、そろそろ自分たちだけでは限界にきて、弁護士に相談したいということになり、室町弁護士にお願いする。以後、JPNIC, JPRS 等のお世話をしてもらう。
  • IIJメディアコミュニケーションズ設立。Web 制作などから始める。三番町の地下だったか?総理官邸の Web は、私とさっちゃんの合作。
  • 通産省で委員会か会合(これは山口英が一緒だった気がするので、認証かセキュリティ関係)があって、忘れ物を取るために、いつもより早く三番町に行き、タクシーで霞が関へ。霞が関が騒がしい。地下鉄サリン事件。あれ、まっすぐ霞が関へ地下鉄で行ってたら、巻き込まれたかもしれない。
  • その後、タクシー通勤令が出る。

(さらにつづく)