- UTnet運用センター兼務になってから、(正式に?)WIDE Project に参加する。
- 大型計算機センターの3階にほとんどいるのと、UUCP をやれる奴が私しかいなかった?ので、ccut の root を手伝うようになる。
- ccut でのメール配送が滞るようになって、なんとかしないといけない的なことを fj に書いたら、太田氏(mohta)に怒られた覚えがある。
- B news は末期では、パッチがグダグダになってきて、当てると OS によっては動かなくなる事態があって、それを直して fj に POST したときに、初めて斎藤明紀氏のお言葉をいただく:-) まあ、その後 C news になって問題はなくなったが。
- WIDE Project で最初のうちは、国内のメールの到達速度(IPへの移行期だったので)とか、ニュースの到達速度などの変化を調べたり、JNIC が発足するまでの、ドメインの増加などを調べていた(UNIX magazine 連載の第一回にまとめ)。
- JNIC発足(別稿あり)
- JUNET協会設立(別稿あり)
- ip-connection ML とか、IP meeting の開始とか
- JEPG/IP とか
- JNIC の会議はやたらと長くて、ほぼ1日仕事だったなあ。ドメインの規則を作るのが先だったが、なんであんなに長かったんだろう?
- JEPG/IPは地方回りをしたので、あちこち行った。
- JAINの合宿で、mohta さんと一緒になる。。。。。
- 2回目くらいの WIDE 合宿で、インターネット事業会社(のちの IIJ) の設立計画?の話に引きずり込まれる。
- WIDE とパソコン通信の相互接続 (別稿あり)NIFTY の SYSOPをしてたからなあ。でもこのころはまだそんなに儲かってはいなかった。
- IIJ に行くことを決断したのは、村井さんの家の近くで、ミーティングをしたとき。
- IIJ に行くことにしたので、電気通信主任技術者試験に挑戦する。一回目は、法規で落ちた。二回目は IIJ に移ったあとの夏で合格。
- 初めて携帯電話を持つ。村井さんとか楠本とか修とかはバリバリ使ってたが、mova の重いやつ。ちょっと話し込んで目の玉が飛び出る料金を食らう。NIFTY のギャラがなかったら、国立大学の給料じゃ破産だろ。
(つづく、次は IIJ 編)