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NIFTY Serveのシスオペ

私は、東大教養学部の助手になり、アルバイトもやめて、しばらくおとなしく大学での活動に専念していた。もっとも研究でもコンピュータに毎日向かうような仕事ではあったので、パソコンから離れるというわけではなかったし、その筋で活躍していることは、助手の採用面接でも言われたことだったので、大学でもそういう期待もされていた。研究室には、PC-9801があり、8インチのフロッピィディスクが付いていた。この8インチのフロッピィディスクは、もちろんその時点では最も大容量だったということもあるが、測定器との間でデータの受け渡しをするのに必要だったために使用していた。

2年目にUNIXワークステーションを研究室で導入することができ、JUNETへの接続を行い、その世界へ入っていったわけであるが、同じころ大学院生時代に「パソコン幻想を剥ぐ」を共同執筆した古瀬君から、NIFTY-Serve というパソコン通信サービスが始まり、自分が SYSOP というものをしているフォーラムがあるから、参加してみないかという誘いがあった。

当時は、アメリカでは、BBS サービスというのがあるというのは知っていたが、こちらは研究室で UNIX ワークステーションが入るので、東大の大型計算機センターのサブシステムである UNIX を使って、JUNET のネットニュースを見ていたりしていたので、特段自分からやってみようという気にはならなかった。それに、まだ自宅のパソコンは、FM-8 だったので、日本語での通信はできなかった。研究室のワークステーションと接続するためにモデムは持っていたので、古瀬君の勧めで、OASYS 30AF II という日本語ワープロを使って、NIFTY-Serve につなぐことにした。

今でこそ SNS という形でコンピュータを使ったコミュニケーションは一般的になったわけだが、基本的にやっていることは変らない。ただ、通信環境がまだ 1200bps のモデムが出始めたころで、プロ用では、2400bps や、9600bps のモデムもあったが、一般には手の届かないような値段であった。OASYS は、1200bps のモデム内蔵モデルがあって画期的であり、NIFTY-Serve は、そのユーザのためのコミュニティという側面もあった。1200bps だと、文字が出るのを目で追えるくらいの速度なので、のんびりしたものである。したがって、コミュニケーションものんびりしたものである。

BBS(電子掲示板)という言葉で表現されていたが、NIFTY-Serve のフォーラムは、BBS型の会議室と、ライブラリ、チャットコーナーという構成だった。NIFTY-Serve には、だれでも参加できるチャットコーナーが CB シュミレーターという名前で提供されており、人気があった。

さて、参加してみると、問題は課金がかさむということだった。電話料金が、3分10円、さらに NIFTY-Serve の課金が1分10円かかる。NIFTY-Serve は、富士通のネットワークサービスである FENICS を使って、アクセスポイントを全国展開し、地方のユーザもほぼ市内通話料金で利用できたので、画期的なものであるが、1分10円の課金はかなり重い。古瀬君のフォーラムでチャットに参加して、1時間くらい付き合うと、電話料金と合わせて、一日1000円を越えてしまう。それを言うと、古瀬君は、SYSOP は無料であるし、さらにいくらかの報酬をもらえるという話であった。ならば、SYSOPになろうというやや不純な動機であったのだが、古瀬君のフォーラムで知り合った人の中で応援してくれる人もあり、SYSOPとなった。

当時は、まだそんなにNIFTY-Serveもプロモーションを模索していた時期なので、おそらく雑誌などとのタイアップでもフォーラムを作っていたのだと思う。ちょうど、研究室で UNIX ワークステーションを入れたところだったし、JUNETの fj のニュースグループはプロばっかりで、まだ敷居が高かったので、そういうグループをやろうとしたら、すでに存在していた。ただ、何かの雑誌とのタイアップらしく、まったく使われていなかったので、交渉の末、それを引き継ぐことになった。SYSOP となったあとは、内容とあわせるために、UNIXフォーラムという名前に改めた。

そういうわけで、大学では、JUNET、個人では UNIX フォーラムの SYSOP をやるということになった。しかし、パソコン通信で UNIXの話をしたところで、そうそうユーザが来るわけではない。そのため最初はそんなに人気があるわけではなかった。

しかし、情報格差というのは、この時代非常に大きく、雑誌では情報は限られるので、コンピュータに関する情報を交換するのに、このシステムが最も適していることは間違いない。この当時、最も人気のあったのがMacintosh のフォーラムであり、海外の情報、フリーソフトウエアを供給することで、非常に人気があった。

NIFTY-ServeのフォーラムのSYSOPにはいろいろな人がいて、いろいろな運営方法を行っていた。OASYSのフォーラムでは、開発者も参加していた。もっとも、直接開発に関係するようなことを特段話題にしていたわけではないが、サポートという点では理想的なものであったと思う。PC関係のフォーラムは最も人気があり、アクセスも多い。NIFTY-ServeのSYSOPはフォーラムへのアクセス量に比例する報酬をもらえるため、これらのフォーラムでは、多数のスタッフを雇い、運営している人も少なくなかった。また、最初はもちろん SYSOPは副業であったが、そのうち本業を辞めて、SYSOP業を中心にする人も現れていた。私自身も、UNIXフォーラムとインターネットフォーラムの両方が人気上位であった時期には、相当な収入があった。

コンピュータ系はアクセス量が多いので、このようなことが起こったが、趣味、カルチャー系、コミュニティ系のフォーラムも多く、こちらの活動もかなり盛んだった。漫画家のすがやみつる氏がSYSOPをするカーレース関係のフォーラムなどが有名だったが、こちらではさまざまなイベント(俗に言うオフラインイベントである)が行われ、NIFTY-Serveの報酬よりもはるかにお金をかけているようなところもあった。こちらは報酬度外視の趣味のための活動、コミュニティだったと思う。

私はいわば一方の籍をJUNETに置いていたので、情報がたくさんあり、その情報を可能な範囲で提供し始めた。フリーソフトウエアについては、小さいものはライブラリに収容した。しかし、膨大な量のフリーソフトウエアが、UNIX の世界には存在したので、それを磁気テープに収めて回覧するということを行った。これは、大変な人気があり、数百人の参加者に配布するのに、何回か途中でコピーをしてもらって分岐して回覧してもらった。

そのうちに、WIDEプロジェクトの国際接続があり、インターネットが本格的に拡大する。IP接続されていれば、anonymous ftp というシステムでファイルをダウンロードできるようになっていた。日本国内でミラーサイトを作って、海外からのソフトウエアを配布しやすい仕組みを作るようになっていった。そうすると、今度はパソコン通信等で流通している Windows PC用のソフトウエアを、インターネット側で再配布するという動きも出てきた。代表的なのが、後の「窓の杜」になる、東北大学大型計算機センターであった。

フリーソフトウエアの配布も、大型のソフトウエアについては、CD-ROM の販売なども行われるようになり、また NIFTY-Serve もINS64を使用した 9600bps のサービスなどを開始したために、テープ回覧というまだるっこしい方法でなくても、ライブラリからのダウンロードのほうが便利になった。もちろん、NIFTY-Serve の課金は安くはないが、自動運転などさまざまな接続時間を減らす工夫なども登場し、最初のころのように長々と接続をし続けるということを行わなくなった。当時私もこのオートパイロットシステムを使用していて、自分のPCで読み書きすると自動的に投稿までしてくれるものを使っていた。このシステムのおかげでフォーラムの運営もスムーズに行うことができた。

そうこうするうちに、WIDEプロジェクトで、NIFTY-Serve をつなぎたいという話が持ち上がった。この件は別に書くことにするが、それに合わせて、インターネットフォーラムを開設し、そのSYSOPもすることにした。これは、文字通り NIFTY-Serve のユーザがインターネットとの相互接続が実現していく中で、ユーザのサポートをするために始めた。そうはいうものの、NIFTY-Serve からインターネットへメールが出せるようになっただけで、インターネットの本格的な利用には、UNIXが不可欠であり、UNIXフォーラムとインターネットフォーラムは両輪として人気を博した。

私は、IIJへ移りインターネットの事業を行う傍ら、インターネットの普及をするために、インターネットの情報をNIFTY-Serveで発信し続けていたわけである。

しかし、徐々にダイアルアップ接続が普及して、個人でもインターネット接続が可能になり、インターネットから直接ソフトウエアをダウンロードできるようになり、Webが普及し情報流通が盛んになると、徐々に NIFTY-Serve の役割が終わっていった。NIFTY-Serve が大きかったといっても総ユーザ数は、数100万人だったし、先鋭的なユーザの目がインターネットに向いてしまっては、やむを得ない。

まだ、本格的な SNS は登場しておらず、双方向型のコミュニケーションというメリットはあったはずなのだが、モデムでの非同期接続がまだ中心のパソコン通信に比べると、ダイアルアップIP接続であってもインターネットのほうが、便利なのは言うまでもない。コミュニティの形成はすぐに、Blog という形で実現し始めていった。私も、1998年ごろに SYSOP を後輩に譲った。NIFTY-Serve もチャンスがあったと思うのだが、転換期はNIFTY-Serveという巨大コミュニティの全盛期でもあったので、難しかっただろう。