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パーソナルヒストリーメモ(その11)

  • IIJを辞めたわけだが、辞めるきっかけが何だったかというのを考えても、もやもやするだけなので、パス。
  • 東北大学の計算機センターで、Windows向けのフリーソフトウエアを集めて公開している学生がいて、人気が出て、大学では持ちきれないので、何とかして欲しいという話があって、仙台に行って話を聞く。IIJ でサーバを用意するので、それでやって欲しいと提案して、帰ってきて、鈴木社長に話すと、全否定される。これが直接的引き金。これは、後の「窓の杜」。
  • この時期、NIFTY の SYSOP の収入の最盛期でもあったので、収入的に IIJ に依存する必要もなかった。
  • 辞めて、ネットワークカタリストを設立する。
  • SI事業者や、ISP の立ち上げなどのコンサルティングをする。
  • 折しも、NSPIXP が参加者も増え、インターネットを商用化したのと同じように、いい加減にこれも商用化すべきではないかという議論が始まる。
  • IIJ を辞めた時に、TTnet から一緒に仕事をしないかと言われていたので、この IX の話を持ち込む。
  • KDDI 系のグループがやはり IX の事業化を検討していた。当時 TTnet は KDDI との提携を検討していたので、この件も議論する。
  • KDDI案(後の JPIX)は、ISP の互助会モデルで、独自の事業を行うわけでもないし、TTnet にとって回線が売れることとのシナジーがないので決裂して、メディアエクスチェンジを設立する。
  • この背景にあったのは、「窓の杜」をやれなかったこと。ああいうサーバは、特定の ISP ではなく、すべてのISPに均等な場所(当時は IX)にあって、アクセスできると便利だと思っていた。
  • メディアエクスチェンジは、サンシャインシティ(東電の変電所がある)の中に、ハウジングルームを備えた設備としてスタートする。
  • IX としては、JPIX が先に立ち上がるのは当然。MEXは、NSPIXP や、JPIX に接続して、それらのコネクティビティが潤沢にあることをアピールして、営業をする。池袋ー大手町間は、東電のダークファイバ―をTTnetから提供してもらう。国内は太いが、国際線は細い、その分安いということで、国内向け事業者にアピール。当時はまだ、ISP は国際線が太くてなんぼの時代。
  • IIJが、インターネットマルチフィードというコンテンツ配信のためのサービスを始める。
  • アメリカで、eXodus が成長して、データセンターという言葉が使われ始める。というわけで、MEXもデータセンターとして売る。
  • 楽天(当時は会社名は、MDM)がユーザになる。
  • ネットバブルの影響を受けて、急成長。VC からの資金も入れて、上場準備へ。eXodus からの買収の打診があるが、外資系の証券会社とは意見が合わなくなってきていた。
  • ネットバブルが崩壊する。あんまり日本の実業には影響なかったが、株価は低迷。
  • 技術革新によるコストダウンの効果を成長計画の中で評価に入れない証券会社のやり方との間でもめて、主幹事を変更。
  • 設立から7年で東証マザーズ上場。ただし、競争の激化と、サンシャインをベースにしていることでの高コスト構造で、データセンターの単独事業は伸び悩み。
  • ライブドアから資本参加提案。気に入らないとか言えるような状況ではなく、受諾。堀江とは1回会っただけ。
  • 直後、ライブドア事件勃発。
  • あとはグダグダで、代わりのスポンサーを見つけることに奔走。
  • 日本SGIがライブドア所有分を引き取ることで決着する。疲れたこともあって退任。

(この後は、ほぼ現在形になるので、ヒストリーはここまでか)

(MEX時代などは別稿あり)