シェアする

JUNET協会-終わりのための始まり

当時、郵政省と通産省で交互にインターネットの商用化についての検討委員会が開催されていた。IIJの設立される2年ほど前のことだ。1991年、それまで慶応大学の村井研究室で、IPアドレスの割当が、実験ネットワークの JUNETのボランティア管理グループ、通称 junet-admin がドメイン名の割当を行っていたのを、JNIC (任意団体、日本ネットワークインフォメーションセンター)に集中させることになった。JNICの代表には、平原正樹(故人)が就いた。平原氏は、junet-admin 時代から中心的存在であり、九州大学から、東京大学大型計算機センター助教授として移ってきていた。私は、情報ネットワークシステム運用センター兼務となっており、隣の部屋にいた。

当時の日本のインターネットは、WIDE、TISN (東大理学部を中心とする理学系研究ネットワーク)、JAIN (学術情報センターの X.25網を利用してIP接続している大学間ネットワーク)が中心となり、JAINや、WIDE に加入している大学を中心として、地域ネットワークが、九州、中四国、東北などで活発に活動をはじめていた。

JNICは、これらのネットワーク団体がスポンサーになる組織として運営されることになった。さて、ここで残されたのが実験ネットワークのJUNETの組織であった。地域ネットワークも関西や、関東では大学のみの組織として運営されることになり、民間企業は行き場を失うような状態となりそうだった。まだ、商用ネットワークのサービスが開始される2年以上前の話である。

JUNETとは、UUCPという UNIXの電話回線を利用した、間欠接続型のファイル転送手段を応用し、電子メールとニュースをサービスするネットワークであった。JUNETの時代、だいたい1時間に一回電話をかけるので、電子メールが届くのは、1時間に一回なので、いまのようにせわしないことはなかった。

さて、WIDE, TISN, JAIN などに移行した大学や企業(WIDEには企業が入っている)が、実際には JUNET の基幹を担っていたので、基幹部分は、現在と同じ IPネットワークになりつつあった。

私は、WIDEプロジェクトで、パソコン通信とインターネットとの電子メールの相互接続プロジェクトなどを担当し、また商用化についての検討を行っていて、なりゆきもあるのだが、これをなんとか取りまとめる組織を作るということを行うことになった。当時、私は東大の UUCPゲートウエイの ccut というマシンの管理も手伝うようになっていた。そして東京地域の企業で、JUNETの活動に積極的にかかわり、多くの組織との UUCP 接続を行っていた、徳川(DIT、以下、所属は当時)、鈴木(フォアチューン)、松山、三膳(創夢)らとともに、残った JUNET の加入組織を、JUNET協会の会員という形で収容することを企画した。というのは、JNICの規定で、日本のインターネットでの相互接続性を確保するためには、どこかのネットワークプロジェクトに参加していなければならないことと、JNICへそのプロジェクトは加入組織数に比例する会費を払わなければならなかったからである。

要点は、こうだ。WIDEなどのインターネットに接続していて、下位にUUCP接続を持っている組織を、界面組織と定義して準会員的に扱い(会費を二重に取ることや、任意団体の会費を大学から徴収することは難しいため)、その下の UUCP 組織を正会員として年会費を、JNICに上納するために集めるというものであった。各界面組織の管理者とは、だいたい WIDEプロジェクトなどで活発に活動しているメンバーだったので、それぞれそこから接続している組織に対する説明をお願いした。UUCP接続は、だいたいは個人的な関係の中で接続をしていることがほとんどだったので、それほどトラブルは起きなかった。加入が行われず、接続性が失われるものもあったが、実際には担当者不在になっていて、そういいうものがあることすら忘れられていたような場合のみであった。

ただ、これは日本に特有の特殊な状況だったので、たまたま外国人主体の組織で接続していたところが後に問題を引き起こすことになったのだが、電子メールの接続性は別の方法で持っていたので、接続性を失うという深刻な問題をこの時点で起こしたわけではない。

こうして、JUNET協会が、1992年10月発足することになった。JUNET協会の、プロジェクト登録が行われたのは、1992年10月18日(日曜日)、組織数106だった。

ただ、これによっていままで、JUNETへの加入手続きというのが、個人的つてを頼る以外に手段がなかったのが、明確化され、加入希望も急速に増加してしまった。商用ネットワークのニーズが大きくなっていることを強く感じた時期だった。そのため、富士通の紹介で、AT&T JENS (当時)の宮路社長に、JUNET協会会長として、サービスの開始をお願いしに行ったこともあった。そのときは、自分がそうした事業に直接参画するとはたぶん考えてはいなかったと思う。いいわけをするなら、インターネットの変化の速度はとても早く、真摯な検討を社内ではされていたと思われるが、我々が待ちきれなかった。

JUNET協会は、商用ネットワーク会社ができて、そこが接続サービスを提供し、JNIC会員組織になれば、不要になることは明確なものであり、できるだけ早くなくなるのが健全であるという組織だった。私は初代会長についたが、1年後IIJが発足し、私はIIJへ加わったため、会長を辞し、大学人である砂原秀樹に二代目会長をお願いし、砂原は解散を担当するという短命の組織となった。

JNICは、社団法人JPNICとなり、IIJとSPINが、UUCP のサービスも提供し、JUNET協会会員の民間企業の受け皿になった。国公立大学等には、学術情報センターがサービスを提供を開始した。私立大学や、研究組織では、中にはIIJなどの民間サービスを利用したものもあった。

最終更新日: $Date: 2008-10-18 16:52:55+09 $