シェアする

荒川コミュニティネット

平成10年(役所のプロジェクトなので、記録がこうなっている)、荒川下流工事事務所(当時建設省)が、荒川下流(笹目橋より下流)両岸に引いた光ファイバー(光ファイバー用管路)の民間活用と、防災情報の交換を目標として、荒川コミュニティネットという実験プロジェクトを3ヵ年計画で行うことになった。

委員長は、月尾嘉男(東京大学大学院教授、当時)で、私は、ネットワークの専門家として委員会のメンバーに呼ばれた。ネットワーク部会長として、物理的なネットワークの構築に関しての検討を行うことになった。

また、当時はインターネットのインフラそのものが未熟な時代で、光ファイバの活用ということが中心になった。すでに、荒川下流工事事務所で水門に設置したカメラの映像がアナログで流域2市7区(東京都、埼玉県)のケーブルテレビ局には一部配信されていた。

まだ、この時には、直接 Ethernet として光ファイバを使うということは一般的になっておらず、伝送装置を必要とした。映像を配信することも必要なサービスだったこともあり、ATMを採用してネットワークを構築することになった。

MEXも当初ATMスイッチを使ってネットワークを構築した。日本のインターネット業界の関係者は、結構、ATMには懐疑的であったことも確かで、ATMは確かに短命に終わった技術だったが、当時多重化が必要なネットワーク構築ではもっとも安価に利用できる技術であり、コンピュータネットワークとも、映像サービスとも相性のよい技術だった。

というわけで、すくなくともケーブルテレビ局にはちゃんと動くネットワークを見せることができた。荒川コミュニティネットの3年間は、私の中での活動量は大きくなかったのだが、動く使えるものをこうしたプロジェクトの中で構築できたことが大きな成果ではなかったかと思う。

しかし、周りのネットワーク環境の変化はもっとめざましいものがあったことは確かで、1年のブランクを経て、新荒川コミュニティネットのプロジェクトを行うときには、このインフラのことはすでに忘れ去られてしまい、全く別のプロジェクトへと変貌していくことになった。

最終更新日: $Date: 2008-10-18 23:29:51+09 $