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構造有機化学とコンピュータ (1991)

これは、1991年に書いたものです。

はじめに

近年のワークステーションの発展はめざましいものがあり、われわれの研究室 の環境も一変した。旧来の大型計算機センターの端末利用は全く姿を消し、ビッ トマップディスプレイを備えたワークステーションが各人の机の上にのってい る。そのコンパクトなデスクトップコンピュータは、十数MIPSの処理能力を有 し、数年前の大型汎用計算機の性能を凌駕している。主記憶も十数メガバイト 以上、ハードディスクも数GBの容量を持っている。我々のアクティビティのほ とんどはこれらのワークステーション上で行なわれている。

我々の研究室では、主に分子量数100程度の有機化合物の精密構造解析、およ びその理論的考察を行なっているが、その研究にどのようにこのコンピュータ 環境がかかわっているかを簡単に紹介する。システム自身はまだ発展途上であ り、ソフトウエアの整備はまだまだ今後の課題である。

分子構造解析に必要なコンピュータ

分子構造解析でコンピュータを利用する場面にもいろいろなものがある。

計算機の進歩によって、小型化が起こるのと同時に高性能化も進んでいる。ハ イエンドのスーパーコンピュータは、不可能を可能にする方向を目指している。 最先端の分子軌道計算の分野での利用などがこのようなものに当てはまるだろう。 ここでは、この分野に関して議論するつもりはない。

これの対極にあるパーソナルコンピュータはおおげさなハードウエアを必要とし ない手軽なコンピュータという特徴を利点にして発展してきた。パーソナル コンピュータは確かにより高性能になり、スピードの点では研究に役立つよう になってきたが、もともとフロッピィディスクだけでも動作するように作られ、 その歴史をひきずっているため、規模の大きなソフトウエアが満足に動作しな い。

パーソナルコンピュータの発展を背景として半導体技術は飛躍的な発展を見せ た。マイクロプロセッサの進歩を始めとして、メモリ素子の小型大容量化、ディ スク装置等の周辺装置の小型化が短期間に起こった。これによって従来比較的 大げさなハードウエアを必要としたコンピュータシステムをデスクトップサイ ズにしてしまった。主としてUNIXをオペレーティングシステムとするワークス テーションである。

従来は大げさなハードウエアを必要とし、不自由な汎用大型コンピュータを利 用しなければならず、なかなか日常的に使うことのできなかった種類の計算が これらのワークステーションでは、特別な移植テクニックを必要とせず、利用 できるようになった。そのためルーチンワークの中に組み入れられるようになっ た。また、手元のコンピュータで処理が行なわれるため、パーソナルコンピュー タに相通じるインタラクティブな利用が可能となった。

我々の研究室では、大型計算機センターの利用がかなりの研究費を使っていた 時期もある。しかし、現在はデータベース検索以外では、大型汎用機を利用す ることはない。遠くにある大型汎用機を回線経由で使うよりはるかに柔軟な操 作性を得られる。スーパーコンピュータの限界性能を追いかける仕事でなけれ ば、ワークステーションで事足りる。また、共同利用のセンターで通常許され る計算機資源程度に比べて、十分大きな資源をワークステーションで利用可能 である。

研究室における基本コンピュータ環境

コンピュータを道具として使った研究のアクティビティは人間のアクティビ ティ+コンピュータのアクティビティである。そしてコンピュータをオペレー ションすることよって、人間のアクティビティを高められるものでなければな らない。

我々の日常の仕事というのは、小さな単位の仕事を複数並行して進め、まとまっ た仕事として仕上げていくものである。試験を受けているわけではないのだか ら、いろいろな資料を参照したり、過去のノートを見たりしながら行なうもの である。

これをコンピュータの前に座って行なうことを考えてみると、あるウインドウ で計算をしてその結果を見ながら、別のウインドウで図示したり、レポートに まとめたりしながら作業をするめられることが必要である。

人間の仕事が小さな仕事を複数並行しながら進めるのと同様にコンピュータも 複数の仕事を並行して処理できなければならない。そして、人間が机の上に資 料を広げて仕事をするよりも快適な環境が得られなければならない。

我々が書類をパラパラとめくるときの認知レベルというのは、非常に高いもの がある。とても、普通のパソコンの80字24行のディスプレイでは、その感覚と 同等なものは得られない。文字情報ならA4サイズ2枚分くらいは同時に表示で きないと縦覧性を同等にすることはできない。

このあたりまではマルチタスクで高解像のディスプレイでマルチウインドウの 可能なものであればこの条件はおおむね満たすだろう。

基本となるコンピュータ環境は、人間のアクティビティを引き出すことのでき るコンピュータである。このため、まずオペレーションのしやすいものでかつ、 標準・規格をできるだけ忠実に満たしているものが望ましい。また、MS-DOSの ようにシステム設計上の制限が大きいものは今となってはかえって余計な知 識、労力を要求される。これらはソフトウエアの移植、開発に余計な手間を 必要とし、トータルアクティビイを下げる要因にしかならない。

各社さまざまなワークステーションが販売されており、それぞれ特徴をもって いる。目的に適合した機種を選べば、それを達成するのは容易であろう。しか し人間というものは欲張りなもので、当面の目標の達成が容易であるほど、そ のワークステーションにいろいろなことを期待してしまう。

このような点から、現状では我々は汎用のワークステーションを用いている (Sun Microsystems社製)。この種のワークステーションとしては、 コンピュータサイエンス専門の研究者にユーザの多いものが使いやすい。 作業環境の整備状況が優れており、ソフトウエアの移植を行なうにあたっての 問題が非常に少ない。

無論、分子構造の研究に美しい三次元グラフィックスが有効なものであること は、議論の余地のないものであるが、この点にすぐれたワークステーションは 一般的なソフトウエアの移植性に問題のあるものが少なくない。われわれは各 人の机上のワークステーションとしては、三次元カラーグラフィックスに関し ては重きをおいていない。

インフラストラクチャとしてのコンピュータネットワーク

我々の研究環境においてコンピュータネットワークは欠くべからざるものになっ ている。コンピュータネットワークの広がりとしては、研究室の中、キャンパ スの中、キャンパスの外へ広がり世界に通じるものがある。ネットワークの利 用は、メッセージ交換、遠隔ログインやファイル転送、高度なネットワークア プリケーションの利用の3つのレベルがある。

ローカルエリアネットワークの利用

研究室、あるいはキャンパス内のレベルのネットワークがローカルエリアネッ トワーク(LAN)である。おおむね、10MbpsのEthernetによって構築されている。 ここでは通常、前出の3つのすべての利用が可能である。

研究室の中ではNFS(Network File System)を利用して、誰がどのワークステー ションを使っても同一の環境になるようになっている。レーザープリン タもEthernetに直結されており、どのワークステーションからも高速出 力が可能である。

これらネットワークはキャンパスネットワークとも接続されているので、自分 のワークステーションから学内のいろいろなコンピュータサービス を利用できる。大型計算機センターに接続してデータベースを検索する 場合もこのネットワーク経由で行なっている。高速ネットワークの構築 が徐々に進んでおり、より使いやすくなるだろう。

しかし、残念なことは日本の大型計算機センターがネットワークを利用したサー ビスの提供にあまり熱心ではないように感じられることである。アメリカのスー パーコンピュータセンターはこの点に非常に力を入れている。スーパー コンピュータで計算された結果のビジュアライゼーションをネットワーク接続 したワークステーションで行なうシステムが開発されており、ワークステーショ ン用に提供されている。

広域ネットワークの活用

化学者はコンピュータ環境を改善することにあまり熱心でないように思う。大 学の研究者の多くが大型計算機センターの一ユーザに留まっていることが多い せいもあるだろう。他の実験環境、実験手段の改善を考えると同様にコンピュー タ環境を整えることも必要なことであるが、わが国では情報が非常に少ない。

メッセージ交換は広域ネットワークの基本的なアプリケーションである。電子 メール、ネットワークニュースを利用した情報交換はもはやコンピュータを利 用する研究環境にはなくてはならないものである。

最近、パソコン通信が流行して、電子メールや電子掲示版の利用が普及しはじ めた。しかし、これらのパソコン通信はユーザがセンタに電話をする必要があ り、実はホストをTSSによって利用する時代遅れの形態の焼き直しにしかすぎ ないのだが、コンピュータを介したメッセージ交換が有効な情報交換手段であ ることは最低限認識されると思う。

ネットワークの電子メールの利点は、自分のコンピュータに入っている情報な らなんでもそのまま、コマンド一つ打ち込むだけで送れることである。離れた ところにいる研究者の間で協調して研究を進めるためにこれほど強力なツール はない。ネットワークの接続形態にもよるが、最近は数分から数時間で全世 界に到達可能になった。複数の人に同じメッセージを送ることも容易なので、次 のネットワークニュースと同様に情報交換にも利用できる。

ネットワークニュースは、いわゆる電子掲示版システムに類似したものである。 わが国では JUNET でこれを行なっている。ネットワークニュースは情報の宝 庫である。マスメディアにはのりにくい情報もそこでは交換されている。双方 向のメディアであるので、自分から主体的に情報を求めると電子メールやニュー スで反応が返ってくる。現在全世界規模でニュースの交換が行なわれている。

コンピュータ関係の情報が多いのはもちろんであるが、化学関係の情報も増え ている。半経験的分子軌道法のプログラム Mopac の最新版はネットワークで 入手可能 (ouchem.chem.oakland.eduから、anonymous ftpできる) で あるし、オハイオ州立大学スーパーコンピュータセンターで開設されているコ ンピュータケミストリーメーリングリスト (chemistry@osc.edu) では 一日数通のメールがかわされている。

コンピュータネットワークは WIDE Project (慶応義塾大学環境情報学 部 村井 純氏を中心とする広域分散環境の構築技術を確立するためのプロジェ クト) を始めとする国内外のインターネット接続によって、「こんな結果がで たんだよ」、「本当かよ、見せてごらん」、「ちょっとかしてよ、こっちでやっ てみるから」ということが世界的なレベルで簡単にできるようになってきてい る。

具体事例

このような環境の恩恵を最も享受できたのが、我々の研究室におけるX線結 晶解析である。

X線結晶解析は、物質の原子的構造を精密に知るための最も信頼できる実験的 方法の一つであって、結晶によって回折されたX線の強度の空間的分布から、 結晶内の原子の3次元的配列を決定するものである。これには非常に多くの計 算が必要であり、コンピュータは必須の道具である。

わが国では今日でも依然としてメインフレームコンピュータを利用しているユー ザが多いが、これはあまり使いやすいとはいえない。結晶解析においては、分 子構造や結晶構造の図を出力し、それを見ながらの処理を行うことが必須のプ ロセスであるが、メインフレームでこれを対話型に行うことはむずかしく、本 体と図形出力デバイスが直結していない場合には、図の出力を得るだけでも骨 が折れる。結晶解析を自ら手がける有機化学者が数年前までは非常に少なかっ た理由は、使える回折計が少なかったこと以外に、メインフレームコンピュー タの使い勝手の悪さにもあると思われる。

我々は現在これまで述べてきたワークステーション環境で、Xtalを使って結晶 解析を行っている。X線結晶解析のプログラムは、最近ではX線回折計のメー カーがワークステーション用のすぐれたものを開発・販売しているが、高額な ため普及には限界がある。

Xtalは西オーストラリア大学のHall教授らが編集制作しているもので、現在、 ワークステーション向けに非商業ベースで制作・配付されているほとんど唯一 の統合的結晶解析プログラムシステムである。非常に多機能で、低分子の精密 構造解析から蛋白質の構造解析までカバーする。

Xtalを使うことによって、結晶解析に要する手間と負担が著しく軽減された。 従来は、紙に出力された構造を見て必要な原子を選び、つぎの計算の入力デー タを作るという作業を繰り返していたが、このプログラムを使うことによって、 この作業がすべてウィンドウ上でマウスを使う対話型オペレーションによって 行えるようになり、最初から終わりまで、紙に一切出力をせずに結晶解析を 完成することも可能となった。厄介であった図の出力は、ウィンドウ上、レー ザープリンタ、プロッタのどれからも簡単に得られる.

このように結晶解析が比較的簡単にできるようになった結果、種々の有機分子 の結晶相における挙動を自ら詳しく調べられるようになった。従来、有機化学 の研究対象はほぼ溶液相に限られていたが、いまや結晶相も有機化学の重要な フィールドになったといえる。

Xtalのもう一つの特徴は、ネットワークによるサポート機能である。現在、 Xtalはversion3.0が配付されているが、updateは頻繁に行われている。その情 報は電子メイルによってのみ得ることができる。すなわち、updateのための address に電子メイルを送ることによって、向こうのコンピュータが自動的に 情報を送り返してくれるものである。こちらから送って返事がくるまでに要す る時間はたかだか数分である。これは、開発者と使用者のどちらにとっても都 合のよい優れた方である。また、プログラムに関する問題点などについても、 すべて電子メイルを使って開発者自身と情報の交換ができるので、迅速に問題 が解決できた。 これらは、いずれもUNIXワークステーションとネットワークがなければ実 現しないことであり、いまやこの2つは、構造有機化学の研究環境として是非 とも満たしたい条件であるといえよう。

コンピュータグラフィックスの活用

分子構造の研究にはコンピュータグラフィックスは欠くべからざるものといっ てもいいだろう。広い意味でのグラフィックスはいわゆるGUI(Graphical User Interface)を提供し、作業環境を向上させるのにも役立つ。我々の日頃利用し ているX windowもその一つである。カラービットマップディスプレイを備えた ワークステーションはそのような意味合いにおいてもっとも望ましい環境の 一つであるといえよう。

前出のX線結晶解析システムもインタラクティブなグラフィックスとマルチウ インドウ環境によって、ペーパーレスの研究環境を実現している。

グラフィックにおいても、スタンダードの活用は普及のために必要な条件であ る。Xtalでは、GKSを採用することで機種依存性を吸収している。開発者であ るHall教授によると今後はPHIGSを採用していくとのことである。GKSは主に二 次元グラフィックを規定したもの (GKS3Dという三次元拡張版もある) であり、PHIGSは今後三次元グラフフィックスの標準になるであろう規 格である。ワークステーションのGUIの標準であるX-windowもPHIGSを採り入れ て拡張が行なわれている。

三次元の分子構造を美しく表示することは、かなりのコンピュータパワー を必要とする。われわれの使っているのは単に多色表示にできるビットマップ ディスプレイに過ぎないが、本格的に立体感のある分子構造の表示を高速に行 なうためには、専用のハードウエアを必要とする。

しかし、残念ながらこのようなグラフィックスのためのハードウエアはその他 の部分がこの数年急速に安くなったのに比べて、依然として高価である。普及 するためにはいましばらく時間がかかるといわざるを得ないだろう。

おわりに

分子構造をあつかうからといって高性能のグラフィックス備えたワークステー ションが必須であるとは限らない。安価なワークステーションを活用すること で、日常的な研究環境を飛躍的に向上させるられる。パソコンあるいは汎用コ ンピュータという環境は研究者の利用するべき環境ではないということに気づ いてもらいたい。